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西の家物語-過ぎし日々- これは、山梨県のある寒村の農家の物語である。所在は山梨県山梨市牧丘町西保中。
ここに古来から「西の家」と呼ばれて一戸の農家があった。今はたま 傾斜地に散在する小さい区画の田畑を細い農道で結んだこの地方の農作業は決して 楽ではなかった。若い頃の私にとっては、何の魅力もない、むしろ疎ましい土地であった。 幼少の頃(小学校低学年)から、必要な労働力の一部として組み込まれ、畑仕事、山仕事、ヤギなど家畜のた めの草刈り、少しばかりの田の仕事と,春、夏,秋、冬の区別なく、働かざるを得なかったと言う 事情もあったからである。小中学校と多分部落一の働きものだったと自負している。中学校の頃には一人前の百姓としても通るほどになっていたと思う。 しかし、時が経ち、今になって見ると懐かしい、暖かみのある思い出へと昇華しつつあること にふと気が付くのである。そしてこの地の過去と、我が家の過去を覗き見たい気持ちになっ てきたのである。このような気持ちになるにあたっては、その前に次のような布石もあった。 その1つは数年前、父親健在の頃、二人してハワイへいったことであった。そこで、私達の 遠い親戚の何人かにお会いする機会を得た(k)。 その時、たまたまある方から、自分たちのルーツ について知りたいとの希望をうかがったことであった。(その後作成したハワイにつながる未完成家系図概略) そして、もう一つは、山梨のその田舎 の家で私が江戸時代の武芸の巻き物(東軍流 や 正流関口扇?之巻)など、古文書を発見したことであった。 こうして、ひと足、ふた足と過去に踏み入れ て行くに連れ、不思議と全く無関心であったその田舎の過去に惹かれていく自分を発見 するのである。そして、今は過去について知り、それを記録することが、私の義務であるか のようにさえ思えてきているのである。もし私がそれをしなければ、完全に過去の藻屑としてそのかなりの 部分が消え去ってしまうかもしれないからである。先祖供養の観点からしても、立派な石碑を立てること に劣らず意義あることと考えているのである。 このような前置きのもと、この地方と「西の家」 にまつわる諸々の事柄につき書き留めることにする。以下は、父の死後ほとんど衝動的になされた 思惟の所産ゆえ、整理不十分の取り留めのない記述となってしまうであろう。兎に角、スタート しなければならない。スタートしなければ何時になっても「無」である。そしてこれからの記述の 検証、整理、推敲には次の機会を待つことにしたい。
ところが、享和2年(1802年)の前出の「東軍流」の巻き物には 「古屋 助之丞殿」が記されている。このほかにも、「古屋」姓の古文書が2点ほど見つかっている (日本姓氏紋章総覧の「古屋」)。これらから推察できることの 1つは、我が家は、公文書には用いられなかったが、古屋姓であったということ、もう1つは古屋姓 の者が養子に来たということである。一方、明治4年の相続関係書類には「古明地 元右衛門」と 記されており、すでにこの頃には姓は「古明地」になっていたのである。 この最後の元右衛門は、我が家の分家から婿にきたとのことである。 その前の元右衛門も婿であったとのことである。この元右衛門は牧平の土屋家からの養子であり、
手が大きいのが特徴であり、「お盆」と言われていたとよく父から聞かされいたものである。なお、
この土屋家は、武田勝頼最後の地、天目山で「千人切り」として良く知られている「土屋惣蔵」の側室の子孫 とのことであるが、その側室の出自については聞いていない。 最後の元右衛門は、血統が絶えてしまうことを心配した親戚筋の勧めで婿にきたようである。この時の 女子(とく)の年齢は13歳(叔父の話)だったとのこと。養子にと勧められたられた当の本人は、全く気乗り うすであったが、「あそこには財産があるから、一生遊んでくらせる」と無理矢理押し付けられて 婿にきたとのことである。実際に、太鼓に興じたりして、一生遊んで暮らしたとのことである。なお、後妻の男子は死亡してしまい、成人した時には財産を分与するとの約束もあったようで、後妻の実家と財産をめぐり紛争もあったようである。 こんな具合で、「西の家」は明治初期には混乱状態にあり、「古明地」は自分達とは関わりのない ところで決まってしまったのではなかろうか。 「古明地」は珍しい苗字であり、その謂れにについてよく尋ねられるのであるが、このように「古明地」姓の由来については、明治維新後にこの姓になったこと以外は全く定かでは ないのである。目にした明治以前の古文書にも、歴史書にもこの「古明地」は見当たらない。明治になって在家(この頃在華となったようである)部落およそ20戸が当時の有力者のもと「古明地」としたのに相違ないであろう。更に、同じ「古明地」姓であっても、血縁関係にあるのは約3分の1であり、血縁とも無関係な形で「古明地」が決まったようである。明治末の古明地元右衛門の 香典を見てもこれは明らかである。記帳された金額の多少で繋がりの深さがほぼわかるのである。明治以前の我々の先祖の姓がどうであったかは不明のままであるが、この地にて生活するようになったのは、かなり昔のことと思われる。 この理由としては、生前父猛が語っていたことが上げられる。以下にその理由を列挙する。 (1)、 生活に不可欠な水源が確保されていた。屋敷の北西方向の一段の高みに小型ながら湧水があり、 そこから屋敷内に生活用水を引いていた。水量は現在よりはるかに多く、裏庭には池もあった。そして、 その湧水については、今もって我が家に水利権があるのだとよく茶飲み話として話していたものである。 (2)、 屋敷内に墓地があった。屋敷の北西部、10坪ほどが一段と高くなっており、そこに墓があったと 言うことである。屋敷内、もしくは屋敷近辺に墓があるというのが古くからの屋敷の特徴とされている。 (3)、 鎧、兜もあったが、何代か前、後家にになったとき(その後古文書が見つかり、幕末から明治初期、 婿に嫁いだ後家が存在したことが明らかとなった)、騙されて他人の手に渡ってしまったと父が言っていた。 これらの武具からは、江戸時代以前からこの地で生活していたことが推測される。 (4)、 今の家は父が幼少の頃建てられたものだという。それ以前の家屋では馬小屋は屋内に作られていた。 その理由は日本オオカミから馬を守るためだったと言っていた。すでに、日本オオカミが絶滅してからは 久しく、立て替え前の家屋は相当古くからのものと思われる。この文章は父が他界してまもなくを書いた ものであるが、その後、江戸時代の建物の平面図が見つかっている。 これには確かに屋内に馬小屋が設けられている。前掲の墓も、池もこれにはのっている。これらについ ては、すべて父からの言い伝えは正しかったことになる。後家についてもしかりであった。 確証はないが、鎧、兜があったことも、これらから類推するに、多分確かであろう。 (5)、 この家のすぐ隣に分家を2戸だしており、これらの分家には田畑、山林も分与している。売却した 財産も多かったそうで、売り渡し証文も多数見つかっている。田圃は、なぜこのような遠方にあったのか今もって 疑問ではあるが、約2kmほど離れた別村落にあり、木曾田圃と呼ばれている。子供の頃、田圃の仕事に駆り立てられた時にはつくづく 遠いなと思ったものであったが、かってはここに何枚もの田圃があったそうだ。今はほとんどを売り尽くし、 最も条件の良くない2枚が残っているのみだとのことである。これは、父から伝え聞いたことである。 ここには廃坑になった鉱山もあり、変わった石を拾い集めたものである。主な鉱物がなんであったかは今も 分からない。 これらのことから、以前はこの地方の土地を今よりはるかに広く所有していたことを窺い知ることができよう。 これらのことも、われらの祖先がこの地にはるか昔から居住していたことの証左となろう。
この地に、もっとも古く住み着いたのが、式夫さんの所であり、その分家がよしあきさん、そして、 我が家がそのよしあきさんの分家、我が家の分家が上の家と東の家とのことであった。これらに ついては幼少の頃、父から聞いた話とほぼおなじであった。しかし、次のことは聞いていなっかった。 安田遠江守義定(資料は放光寺)(源平の戦いで活躍)(その子孫の粟屋氏)、(安田義定系図) の時代、「えんもうじ」 (今も我が家の畑)に寺があったということである。 そう言われてみると、昔からの畑とすると、平坦過ぎることになり、信憑性はかなり高いようである。 その後のことであるが、「えんもじ屋敷」という地名の土地の譲渡証文が見つかっているから、ここに 寺があったことはまず間違いあるまい。さらに、興味深いことを聞いた。「在家入り」の「えんもうじ」寄りに は昔鉱泉が湧いており、そこには利用施設もあったとのことである。 この部落(約20戸、一時よりかなり減少)に8軒まきと呼ばれている8軒の農家があるが、その謂れについて は父も知らなかったようである。彼によれば、安田義定の時代にすでにこの部落には、8戸の農家が あり、その当時からこの部落にあった農家を8軒まきというのだそうである。我家も8軒まきの一戸でるから、このことから推しても源平合戦の頃にはすでに先祖はこの地で生活していたのではなかろうか。 以前から不思議に思っていたこの部落の地名の一つに「在家入り(ぜえけり)」という地名がある。 在家(ぜえけ、現在は在華)がこの部落名である。なぜ、在家の奥(深い山へ向かう方向)が「在家入り」なのかが それであった。しかし、彼の話を聞いて、納得出来た。城山(じょうやま、この部落ではこのように呼んでいる) に安田義定の要害城があった。そして、在家入りの少し先に、その城山に通じる道があったというのである。 正月にはこの道を通って、餅を届けていたとのことである。今は道らしい道は何も見当たらない。この部落を 城山から見れば、在家入りということになるのである。 なお、この城山の正式名は小田野山城(標高882m)で、建久5年(1194年)、鎌倉勢、加藤次景廉梶原影時 の軍勢との戦いで、安田義定一族はここで滅亡したという。 小田野山城の山麓には腹切り地蔵さんというのがあって、この場所で自害したと伝えられている。その後、武田信玄子7男信清が安田氏の名跡を継いでいる。 鎌倉幕府以前からとなると、よく今まで続いてきたものである。上の言い伝えも、もしこのように 記録する者がいなければ、永久に失われて行くことになるであろう。 1 |